日本一決定戦回想記〜脳内補完Ver.〜第三章



季節は秋。中学最後の夏休みも終わり、そろそろ文化祭が近づいてきた頃の話である。
たった半年前なのだがずいぶんと昔のことのように思えるな……

まあそれはいい、当時の俺はまだバリバリの軟式野球部員であった。
うちの中学には軟式しかないが、高校には硬式野球部もある。
希望者は中3の夏から硬式に行けるので、あの頃は既に分かれた後だった。

俺のメインであるショートストップには絶対的なレギュラーがいたのだが
そいつが硬式に行ってしまったもので、万年控えの俺にもチャンスが巡ってきた。

実はこう見えても俺は足が速い。いや、ベーランだけ速いんだな。
その夏の合宿の前、だから中2の終わりの春合宿か。
そこでベーランのタイムを全員で計測したんだがまさかのチーム2位。

まあトップは俺なんかとは格の違う速さで、
先ほどの絶対的レギュラーは休んでたが普通に俺よりは速い。

だがその二人とも硬式に行ってしまってな……
その春合宿のデータを元にすればチーム一の俊足に見えなくもないわけだ。

いやその頃から太ってたんだが……ベーランの技術と言うのかは知らないが。
とにかくまあそんな感じで夏合宿に行くわけ。

すると高1との練習試合で耳を疑ったのは一番ショート俺。
いやいやちょっと待て、悪いが俺はスタメンで出るような選手でも、ましてや一番を打てる器でもない。

まず俺の守備はサバンナの蟻塚以上に穴だらけだ。
正面のゴロを捌いただけで河路さんならダイレクトキャッチ! と絶叫してくれるだろう。

じゃあなぜお前はショートをやってるのかって?
そうだな……椿本先輩がショートは野球の花形だと言ってたからかな。

まあもう一つ重要な理由があるのだが、本名に関することなのであえて書かない。
俺の本名を知ってる人ならおのずとわかることだろう。
ひらがなだと5文字目まで一緒のショートストップが某球団にいるんだな。

でまあ一番だが……確かにその人もずいぶん一番ショートをやってるかもしれない。
てか本当は最初ピッチャーでサードに転向してショートにならなきゃいけないのだが……

しかし一番って左バッターがやるというイメージがあるのだがどうなんだろう。
まあ個人的に一番仁志は嫌いじゃないというか大好きなんだが。

とにかくまあ最も打席が多く回る打順なんだから打てるやつを置くべきではないのか。
残念ながら俺はそんなに打てるバッターではないのだ。確実性もなければ長打力もない。

特技といえば顔面死球の暴投でもバントできるくらいだ。
あ、もう一つあったな。自打球で自分のメガネを吹き飛ばすことができる。
いや、冗談ではない。振り抜いた打球がほんとに顔面を直撃したんだ。

……まあいい。とにかく突然一番を言い渡された俺は焦った。
しかも先攻だしな。すぐに打席に入らなければならなかった。

一番といえば多く投げさせて、相手投手がどんな球を放るのか皆に見させる必要がある。
それくらい俺でもわかってたはずなんだが……

何を思ったか今岡ばりのプレイボール初球打ちをし始めた。
これがレフトスタンドへ突き刺さればプロ入りも見えてくるんだが、あいにくの内野ゴロ……

なんかもう俺以外の全員があっけにとられてたね。
自分でも呆れるよ。全く粘るという姿勢が感じられないんだからな。

うちの野球部には一日の反省を書いて監督に提出する制度がある。
もちろん俺は先頭打者が初球ゴロなんて最悪でしたorzと書いたんだが……
それに対する監督のコメントは……

「初球内野フライよりはまし(笑)」

……言っておくがうちの部もそれなりに上下関係が厳しい。
監督が時には敵に変わることだってある。
朝食でもなんでも遅刻しようものならグランドを何十周させられるかわからない。

その監督から(笑)とコメントが返ってくるのは紛れもない、
期待されている・気に入られている証拠であった。

なぜそのように思われたのかは俺にもよくわからない。
監督もパワプロ好きだったから俺から同じ何かを感じ取ったのだろうか。
もしくは俺のヘッドスライディングを見てガッツ溢れる選手と勘違いしたとか。

いずれにせよ、それから俺の一番固定が始まってしまった。
周りからは少なからず疑問の声が上がったことを補足しておこう。

別に俺はうぬぼれていたという自覚はない。
ただ監督の評価が高かったからレギュラーポジションを得たわけであって
そういうのはパワプロの世界だけではないのだと実感していただけであった。

まあさっぱり打てなければ監督も見切りをつけたであろうが
これまた中途半端に活躍してしまったのだな……

夏合宿終わって、江戸川の河川敷だったろうか。
どこぞの中学との試合に俺は一番ショートで先発出場した。

さすがに早打ちすべきでないのだとわかったんだろうな。
一、二打席と続けてフォアボールで出塁。

三打席目はよくわからないが詰まった打球がとんでもない回転でもしたのだろう。
ピッチャー真正面のボテボテ当たりをなぜか捕られずにエラーで出塁。

これだけでも全打席出塁でなかなか一番らしい活躍なのだが
四打席目では思いっ切り引っ張った打球がギリギリサードの頭を越え、
さらに五打席目は華麗に……いや、振り遅れてライト前に落としてみせた。

正直、まぐれである。とはいえ5打席5出塁はまぎれもない大活躍だ。
よって俺の一番固定はまた延長されることとなった。

あの試合は主審をユースケがやっていたことも大きかったのかなと思うな。
彼の審判のクセを知っているとかじゃないが、なんだかリラックスできた。
内角球をよけた時にユニフォームをつまんで死球だとアピールする余裕もあったからな。

ふざけてたわけじゃないんだが楽しむことも大事だと思ったんだよ。
なんかこう息苦しい野球は甲子園かプロの世界だけでやって欲しいみたいな。

そうだな……部活としての野球と気質が合わないのは潜在的に気づいてたのかもしれん。
とにかく帰り道でユースケに打席から威圧感が出てたと言われたのは嬉しかった。
まあそれもあの試合限定だったんだろうけどな……

そんな感じで夏休みが終わり、秋の大会が目の前に迫っていたのであった。
文化祭の前だか後だか記憶が曖昧なのだが
とある日、家に着いた俺は四枚のチケットを目にした。

「ヤクルトvs中日」、聞けばヤクルトのお姉さんがくれた無料招待券であった。
うちの家族はいずれも巨人ファンで、俺も家では生粋の読売ファンとして振る舞っている。

なので友達と行けるなら使っていいよというわけだ。
野球を観に行く仲間として俺はまず四人の顔を思い浮かべた。
このたび作ったプロ野球研究会の面々だな。
その内訳は阪神1、広島2、横浜1(50音順)。

……あろうことにセで唯一ファンがいないカードであった。
さあ困った……というわけではなかったが、どうも家族で行くつもりはないらしいので
みんなに聞いてみて行かないのであればただの紙きれと化すはずであった。

翌日だったかは定かではないが俺は控えめに四枚のチケットを出し、
行くかどうか一応聞いてみた。あくまで一応のつもりだった。

当時はまだ自球団以外を応援するのに慣れていなかったので乗り気には見えなかったが
サード村田がとあることに気づいた。

「この試合で優勝決まりそうじゃね」

……正直、この時はそう巧くいくなどと思っていなかった。
確かにこの頃らへんがXデーになりそうな感じはしていたが
まあ世の中そんなに甘くはないだろうと思っていた。

しかしなんというか、それで運を使い果たしたというかな……
ほんと望んだようにマジックが減っていった。

ここで一つ重大な問題が発生したんだ。
そのチケットは09月30日のもので、翌日は都民の日で休みである。
一見すると最高の巡り合わせなのだが、俺らにとってそんなことはなかった。

都民の日には練習試合が組まれており、それは秋の大会前最後の実戦である。
そしてその前日、チケットの日だがそれは大会の背番号が渡されることになっていた。

グランドを使える曜日が限られるうちの学校においては
大会に向けて最終調整となる大事な練習でもある。

しかし練習に出ていては神宮に着くのが遅くなってしまう。
背に腹はかえられない。出した結論は、練習を無視して神宮へ直行という選択であった。

あの日のことはとてもよく覚えている。
二時限連続の公民の授業中、何度抜け出して神宮へ行こうと考えてはやめたことか。
気が気でない中5時限目の体育が終わり、教室で中日カラーのTシャツに着替えた。
ユースケがこれをアンダーシャツと勘違いして練習出るのかと焦ってたのも覚えている。

6時限目が終わり、すぐに1組、3組、5組、6組から四人が出てきた。
一目散に神宮へ向かうのだが、あろうことに学校から直接行くのは初めてであった。

今と違って千代田線を使って行ったと記憶している。
そして駅からもほんのり迷い、やっとのことで神宮に到着したのだった。

しかしそこに待ち受けていたのは衝撃の光景である。
人、人、人。長蛇の列ってレベルじゃない。

優勝の決まる試合というものを俺は甘くみていようだった。
歩けど歩けど最後尾が見えてこない。
これは座れそうにないと思うと同時になぜ授業を抜けて来なかったのか激しく後悔した。

この列に並んでいては入場を断られる可能性もあるのではと心配になり、
メガホンを買った後、仕方なしにヤクルト側へと入った。

できる限りセンターに寄って座り、終盤になれば中日側へ行こうという魂胆である。
周りに何と言われようとひたすら中日の応援をした。

……だが、俺らの声援は選手へは届かなかった。

敗因はリナレスが出てなかったこと、それ以外覚えていない。
肩を落としての帰り道でふと冷静になった時、とんでもないことをしたと思った。

よく考えてみよう。

背番号を渡す直前の練習を何事もなかったかのようにサボったのだ。
そんな選手に監督が背番号を渡したくなるだろうか。

当然だ。剥奪、というか別の奴に渡したってなんら不思議はない。
だが、俺らの場合は目的があった。落合の胴上げを観るという。
野球人として、そんな滅多な機会を見逃すものではないだろう。

俺たちは練習よりそっちを選んだ。たとえ胴上げが観れなかったとしてもだ。
だが胴上げが持ち越しとなり、結果的にはただ野球を観戦しただけという形になった。

それでも、俺は練習に出ていればなどと後悔はしていなかった。
順当な、正当な判断をしたと確信を持って俺らはこう決めた。

「これのせいで背番号がもらえなかったとしたら、野球部を辞めよう」

監督、キャプテンに何か愚痴られたらその場で辞めようとも決めた。
野球人として下した結論を否定されたのであれば、そんな所に俺らの居場所はない。
二人でサード村田のいる柔道部に入ろう、そう決意した。

この優勝を逃した一戦だが試合前の記憶はあっても
終わった後、帰り道のことはほとんど覚えていない。
それほどに明日はどうなってしまうかで頭が一杯だったのであろう。
そして翌日、俺らの学生生活は大きな転換点を迎える――


と、四章の前にユースケ氏がなんかインスパイアされて書き殴った文章をご覧下さい。
私KPBとはまた違う視点から描く、いわゆるザッピング方式とかいうやつですね。

第三章〜Side Y〜


季節は秋。中学最後の夏休みも終わり、そろそろ文化祭が近づいてきた頃の話である。
当時の俺は一応軟式野球部員だった。一応、というのは部活への情熱が大分冷めていたからだ。

俺は部で一、二を争うほど下手くそで、控えにすら入れないヘボ選手だった。
それが硬式野球部に部員が流れたおかげで枠が開き、何とか控えに入れることになった。
しかし、そこで待っていたのはほぼ強制的なコンバート。
それもお前は控え以上になれないと言われるようなものだった。

俺はもともと二塁手だったが、この学年の二塁手は飽和気味だった。
ある者は外野に回り、またある者は遊撃に移った。そして俺は次のターゲットになった。
コンバート先は一塁だった。部内では比較的背が高い方だったという単純な理由だった。
当時一塁手は一人だけだったが、そいつは部で一番体格がよく、しかも貴重な左利きだ。
打線でも中軸を張っており、こいつを差し置いてレギュラーになるのは絶望的に思えた。

それでも俺は努力をした。野球の技術書を読み漁り、今までに無かったほど素振りをした。
「どうにかして試合に出たい。」今まで抱くことの無かったその思いが俺を突き動かしていた
そして、夏合宿。ここで野球人生のピークと野球部への情熱を失う出来事が連続して起こる。

その日は監督を相手にフリーバッティングをすることになっていた。
監督は直球のみを投げ込んでくるのだが、これが相当にノビてくる球質で皆揃って悪戦苦闘。
そんな中俺の出番は回ってきた。そしてフルスイング――
快音を残し、打球はレフトを守っていた部員の頭を超えた。
これには監督もキャプテンもかなり驚いたようで、何より打った俺自身最も驚いた。
こうして、翌日の下の学年との紅白戦にも途中出場が確約された。

そして翌日の紅白戦。結果から言うと下の学年に負けた。最後のバッターは俺で三球三振だった。
俺を含めて皆不甲斐なかったということで、試合後に罰トレとして過酷なトレーニングが課された。
そこで、俺は
「ピキッ」という音を聞きそのままうずくまった。肉離れになりかけた状態だった。
翌日以降の練習に参加できないのはもちろん、その後3週間以上も安静を強いられた。

この一件で一気にやる気を失った俺は練習に行くのも面倒になり、ちょくちょくサボるようになった。
そんな俺に監督や部員も全く期待しなくなったようで、サボっても何も言われることはなくなった。

そんなやる気をなくした俺も一応参加した江戸川の河川敷でのどこぞの中学との試合。
俺はこの試合で球審をやっていた。理由は簡単、俺は絶対に試合に出場しないからだ。

俺は球審はできればやりたくない。どうあっても俺にこなせる仕事ではないからだ。
自チームに有利な判定をしてはいけないという思いが無意識に働き、自チームに厳しくなってしまう。
それに、曖昧なゾーンに投げ込まれるとキャッチャーのアピールに流されがちだ。
この試合でも
「高目をとりすぎだ」とか、「ストライクゾーンが狭い」とか散々言われた。
別に言われることは事実だから仕方ないが、
「じゃあお前がやれよ」と何度言いたくなったことか。
だが、そんなことはどうでもいい。俺はこの試合で決定的に野球部への情熱が冷める出来事を経験した。

記憶が正しければ相手チームの攻撃で無死満塁だったと思う。
ここで相手のバッターは投手・三塁手・遊撃手の間にフライを打ち上げた。
俺は即座にインフィールドフライを宣告した。これで打者はアウトである。
これをお見合いしてボールはフェアグラウンドに落ちた。それを見てなぜか相手のランナーは走り出す。
自チームは三塁ランナーをアウトにした。完全な走者のミスでこれで走者もアウトである。
しかし、なぜか相手打者が一塁に残っている。しかも、両チームともそれを疑問に思っていない。
・・・俺は呆れた。インフィールドフライすら知らずにお前らは野球をやっているのかと。
仕方が無いので俺はタイムをかけ、両チームのベンチに状況を説明しに行った。
インフィールドフライで打者アウト、その後のプレーで三塁走者アウト、二死二三塁で再開だと。
説明を聞いた両軍ベンチの監督・選手のぽかーんとした顔が今でも忘れられない。
要するに、俺が言っていることが理解できていないのだ。
試合後に
「あれはどういうことか」と何人かの部員に聞かれて説明したが、やはり理解していなかった。
そして、俺は薄々感じていたことをはっきりと悟った。こんな奴らと野球をする意味は無い。
ましてやそんな知識の無い監督に指導など受けたくない、と。

俺が軟式野球部に入った理由は野球をしたかった以上に、野球の話がしたかったというものがあった。
小さい頃から野球好きの俺と話が合うほど野球に詳しい友達は小学校には残念ながらいなかった。
進学校の軟式野球部に来るような人だからきっとそんな友達ができるだろう、そう期待していた。
しかし、現実を見ると俺より野球に詳しい人間は皆無。俺はひどく落胆した。

その中で唯一、KPBだけは俺と話ができるレベルの野球知識を持っていた。
彼と野球談義に花を咲かせるのが軟式野球部の練習で何より楽しかった。
そんな思いを持っていた俺が軟式野球部を離れる選択をとったのは今思うと必然だったのかもしれない。
その引き金となったのが夏合宿で、最後のピースを埋めたのが河川敷の試合だったというだけの話だ。

ヤクルトvs中日に関しては特筆すべきことも無いので特に触れることはしない。
ただ、KPBと違って戦力と考えられていない俺は控えにいてもいなくても変わらない。
だからそのチケットを見たとき、日程を知ってもサボることにさほど躊躇はなかった。
人生初、今のところ生涯一度きりの中日応援は、ヤクルトファンに野次られた記憶しか残っていない。
それでもあの試合を見に行けたことが野球人として幸せで、軟式野球部のことなどどうでもよかった。


(再び筆者はKPBに戻ります)

この都民の日前後というものは運命を左右した、とまではいかなくても
今後の人生を変えたというのは確かであったと思う。
あの日がなければKPBは存在しえなかったかもしれない。
果たして俺らを待ち受けていた運命は――刮目して次章を待て



     

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